野菜

まめな農園 園主

木村 仁士 さん

岐阜県岐阜市

父から渡されたバトンを受け取り、
地域農業の未来を拓く。

学生時代

剣道に明け暮れる日々

岐阜県岐阜市の島地区で多品種のオーガニック野菜を栽培している木村仁士さん。魅力あふれる人生のストーリーと農業への想いをご覧ください。

−ご出身はどちらでしょうか?

「私はここ岐阜県岐阜市の島地区に生まれ育ちました。『島地区』だけあって、昔から川の氾濫が頻繁に起こっていました。そのせいなのか、この地域の土は“砂地”であり農業に適しているのです。当然、農業も盛んでしたし、私の親も専業農家をしていたので、物心ついたときから畑仕事の手伝いをしていましたね。」

−学生時代は農業の勉強もしていたのですか?

「いえ。小学校から高校まで剣道をしていたので、部活や道場での練習に明け暮れていました。平日は練習、日曜日は試合と、剣道漬けの毎日でした。父親は農業に専念していましたが、母親は剣道の送り迎えをしていただき、ありがたかったですね。」

「中学校くらいから漠然と営業マンになりたいと思っていたので、高校も普通科を選び、大学も経営学部に進学しました。」

−そうなのですね。そのまま順調に就職したのですか?

「実は大学時代は少し羽を伸ばした時期でもあり、あまり就職のことを考えなく過ごしました。ファッションが好きだったため、アパレル関係の就職を目指していたのですが、中々決まらなかったですね。気がつけば4年生の冬になっていました。」

東京での生活

親との約束を胸に

−2000年頃は就職氷河期の時期でもありましたよね。その後、どうされたのですか?

「中学時代から仲良くしている友人がモデルとなって東京に行くことになり、彼から一緒に行かないかと誘われたのです。『二人で住めば家賃も折半できるから』と言われて、自分も一緒に行くのもいいかなと思ったのです。」

−東京行きは親から反対されなかったのですか?

「反対されましたね(笑)。話し合いをする中で、親から『農業を継いでほしい』と言われました。そして、将来継ぐ前提なら、3年間は東京に行っていいよと。私は、どうしても東京に行きたかったので、継ぐ約束をして上京したのです。」

−羨ましいです!東京での生活を教えてください。

「好きなファッションブランドで接客の仕事などをしていました。また、同居人が夜勤だったため、自分が料理などを担当していました。実家暮らしの時は洗濯すらしたことがなかったのですが、家事はこの時期に全部覚えましたね。」

−岐阜に戻りたくないと思いませんでしたか?(笑)

「2002年の日韓W杯までと決めていたので、それまでの期間を謳歌していましたね。でもW杯が終わるとすぐに岐阜に戻りました。親との約束を果たすため、就農をしたのです。」

農園の特徴

こだわりの土で旬の野菜を

−まめな農園の特徴を教えてください。

「1987年に私の父親がそれまで行っていた慣行農業からオーガニック栽培に切り替えました。それ以来、毎年のように栽培方法を試行錯誤しながらここまで歩んできました。現在、栽培期間中は化学肥料・化学農薬不使用です。特に、完熟のバーク堆肥や有機ペレット、炭など自然界にある肥料で土壌菌を活かした土づくりにこだわっています。その土を活かして、40種類以上の季節の野菜を少量多品種で栽培していますよ。」

−オーガニック栽培にしてから、取引先も変化してきたとお聞きしました。

「はい。慣行農業の時は市場に卸していましたが、オーガニック栽培にしてからは市場を介さず、レストランや料亭、個人の方への直送販売しています。そして、販売先のレストランや飲食店は、実際にまめな農園を見学して、私たちの想いに共感してくださり、取引させてもらっています。」

「私たちは露地栽培にこだわっており、ハウスは使っていません。そのため、“旬”の野菜のみをお客様にお届けしているのが特徴です。」

−思い出に残っているエピソードなどはありますか?

「小松菜のようなアブラナ科は、アブラムシがつきやすいのです。ある時、大量のアブラムシが発生したため、収穫ができなくなりそのままにしておきました。すると、春になった時に菜の花が咲いたのです。小松菜や白菜、キャベツなどはそのままにしておくと、菜の花が咲くのです。食べてみたら、見た目は菜の花でも味はそれぞれの野菜の味がしました。」

「それ以来、あえて小松菜などの一部を収穫せずに残しておいて、春にその菜の花を咲かせるようにしました。出荷する時も『菜の花(〇〇)』として、その味をお客様にお届けしています。これもアブラムシの失敗から気づいたエピソードですね!」

現在の取組み

父から任された広報活動

−現在の取組みを教えてください。

「農作業と並行して食農教育に力を入れています。近隣の小学校やご家庭の皆さまに収穫体験や講義をしながら、食と農業の大切さを伝えています。地域の皆さまと関わることは、東京から戻ってきてすぐに、父から任されてきましたし、青年部の委員長など各団体の役職も歴任してきました。昔は営業マンになりたかったので、このような活動もやりがいがあるんですよ。」

「そして、このような活動をしていると、東京時代に覚えた料理が本当に役立っていると感じます。料理や食事の話を交えながら講演をしたり、お客様にお勧めしたりもしています。周りからみれば、東京でフラフラしていたと思われていたかもしれませんが、あの時間を与えていただいた両親に感謝ですね。」

今後のビジョン

まめな農園の野菜を全国へ

−今後のビジョンを教えてください。

「もう10年以上、岐阜で朝市を続けています。週1回、“岐阜の銭湯 のはら湯”さんの隣で採れたての野菜を販売しているのですが、やはり地元の人しか買うことができません。今後は、まめな農園の野菜を全国のみなさまに味わっていただきたいと考えています。そのためにECサイトを準備して、個人の方々にもお届けしていきたいですね!」


インタビューの途中、『50年以上農業をしていても、50回しかやっていない。全然名人ではないよ。』とお父様の言葉をふいに話された木村さん。その言葉通り、農業にも人に対しても謙虚に向き合っている姿勢を感じました。

お父様との二人三脚で歩んできた道のりは、やがて岐阜から全国へ。その夢の轍は真っ直ぐに伸びていきます。

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